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オートテクノの思い出

 別館のほうは仕事の話をしないというのが建前でございますが、ちょっと昔話などしようかと思うのでございます。

 「福住 護」という筆名で細々とフリーライターなんぞを営み糊口をしのぐ日々の私ですが、実はこの筆名での最初の仕事はPC雑誌への記事執筆ではありません。それは、今は亡きオートテクノという自動車雑誌からいただいた翻訳の仕事だったのです。

 「オートテクノ

 80年代末〜90年代初頭のマクラーレン・ホンダ全盛期にF-1に熱中していた方ならあるいはこの名前をご存じかもしれません。バブルにあおられたF-1ブームの中、レーシングカーのテクノロジー面のみにフォーカスした誌面づくりを行っていた特異な雑誌(正しくは確かムック)です。

 なんでそんなところから仕事が来たのか。

 この雑誌を発行していたのは、コンピュータ関連の出版でおなじみの株式会社アスキーの子会社であるところの株式会社アスペクトというところです。
 その編集部は当時南青山の某ビルに入居していたアスキー出版局の3Fの一角を占めていました。同じフロアにはほかに月刊MacPower、月刊LAPTOP、そしてLAPTOPから派生した形の月刊WindowsMagazineなどの雑誌編集部があり、ちなみに月刊アスキーは同ビルの4Fに陣取っていました。

 そして私は、オートテクノ編集部のすぐ横で月刊WindowsMagazineの編集という仕事をしながら、暇になるとクルマ談義に興じたり、休日出勤&泊まり込みのなかでF-1中継をいっしょに観たりしていた、というわけです。


  やがて私は93年4月いっぱいをもってアスキーを退社し、地元に戻ることにしました。といって雑誌屋稼業に馴れた身、堅気の仕事に就く気はありません。福岡市に引っ越してしばらくぶらぶらと過ごしていましたが、そろそろ仕事しないといかんな、という状況で声をかけてくれたのが旧知の間柄だったオートテクノ編集部でした。

 もちろん私ごときにF-1の技術記事など書けるわけもございませんが、私がアスキーを退社するのと前後してオートテクノのほうも隔月刊のスポーツカー専門誌へと変貌を遂げていました。その中に「カロッツェリアの世界」という連載記事があり、その翻訳をやらないかというお誘いです。

 

私がかかわった3冊の「オートテクノ」

 元の英文記事は、モータースポーツ誌でよくクレジットを目にするMAX PRESSのものです。詳しい事情はしりませんが、海外の雑誌で掲載されたものの翻訳権を取得したのではないかと思います。連載はすでに始まっていて、第一回ではたしかイタル・デザインを採り上げていました。このとき翻訳を担当したのは、編集部に近しい女性だったのですが、英語はお得意でもさすがにあまりクルマ関係にはあまりお詳しくないので、その辺を考慮して私にお鉢が廻ってきたというしだいです。

 最初に担当したのは93年8月号の「ピニンファリーナ」でした。続いて10月号では「ザガート」を採り上げています。またこの10月号では、もう一本記事を担当しています。
  この号のイタリアンスポーツカー特集に合わせて25年前すなわち1968年のモータースポーツシーンを振り返るという内容で、これもMAX PRESSのものですが、記事の内容そのままでは人名など判りにくいところがあったり、元記事の執筆後に状況が変わったところがあるので、多少私が加筆することが許されました。

 たとえばチームロータスのドライバー紹介で「ジャッキー・オリバー」という名前が出てくると、それに「現アロウズ監督の」などとちょこっと書き加えたり、ランチアラリーチームのサンドロ・ムナーリの紹介では、ランボルギーニ・ディアブロの発売に伴い同社の広報部長として雑誌に登場していたことに触れています。

 

 さらに続く12月号では3本の記事を担当します。うちふたつは「カロッツェリアの世界」で「ベルトーネ」と「ギア」を同時に掲載しています。実はこの号をもってオートテクノは休刊になってしまうので、それを受けての変則的な処置でした。ちなみに第一特集は「時速300kmに殉じた男たち 7人の物語」という内容で、奥付に掲げられた休刊のお知らせと併せ、わびしさが否応なしにただよってきます。

 残る一本は「3つのテーマでアート・デザイナーが描く、14年後のスポーツカー 2010年のコルベット」という記事で、これもMAX PRESSの翻訳です。これはアートスクールの学生がデザインしたクルマを紹介するもので、記事というよりはキャプションの翻訳といった感じです。

 こうして約6か月の間続いたオートテクノとの関係は終わり、私はふたたび単なる自動車雑誌の読者へと戻っていったのでした。

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